拘りのシャドーに弱さがみえる

拘りをもって、本質を極めるというシャドーに自分の弱さが見え隠れする。

昔から熟考したかのように自分が良いと思うことを主張し、時に論理性を持って納得させたり、なるほど、と言わせることが、全てにおいて良いと考えている時期があった。今もたまにそういう所がある。

それは何も正しいわけではなく、本質を突いているわけでもなく、自分の弱さなんだと薄々感じている。また1つの側面として行動に移すことの恐れが、思考に走らせているだけの場合が多々ある。

それは「怖がって動けないでいる、言い訳チキン野郎」ということだ。

そんな自分の「弱虫ハート」と直面する。

そもそも物事に本質や答えなどない。比較の中で自分の意味を求めているに過ぎない。

簡単に言うと、

「俺はここにいるよ。俺は必要な人なんだよ。俺を認めてよ。」

と「孤独を癒したくてどーしようもない俺」なんだってこと。

これは大なり小なりはあるといえ多くの人に共通することだ。(ニーチェもゴッホも孤独の根源に対する答えは出せなかったように)

そんな孤独を抱え生きていく中で、勇気を出して、行動に移して、前進していく人には、

「孤独を癒すチャンスが巡ってくる」

一旦、孤独を癒やす「共感や愛」を感じ始めると、

「今までの悶々とした気持ちは何だったのか?」

というくらいに、何処かにいってしまう。そういうことが要所、要所である。

そうなり始めると、個人としてどうあるべきかなんてどうでもよくて関わって下さる人達と分かち合いながら前に進みたいと思うようになり始めた。

その一連の流れの中で、何となく分かったのは、

「愛」は「理解するもの」ではなく、「感じるもの」だからなんだと思う。

だから「頭の中の答え探しはやめて、動き続けよう」と自分に言っている自分がいつもいる。

そんな今年も残り僅か。

今日も楽しかったーやり切ったー感謝やねーと素直に感じて、心地よい疲れの中で、バタンと布団に倒れて死んだように眠る毎日にしたい。

2013年12月5日